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『誠実であるということ LOVEand COURAGE』/ヒュー・プレイザー著
(ヴォイス出版)
この本はね、私の感覚で言うところの「☆本物☆のおじいちゃん」が書いた本なの。
このカードはね、本の中に入っていたもの。

“人の中にある、もっとも高貴な価値、もっともスピリチュアル価値「誠実さ」。”
(『誠実であるということ』の言葉より)
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私。または貴方は。
誰に対して、または何に対して誠実でありたいのか。
「誠実さ」というのは、
“うっかり”とか“何となく”とかの曖昧さが存在しない領域のものだと感じる。
「誠実である」という行為は愛の名の下にの高い次元の波動領域で成立し、
たまたま誠実だったとか、生まれつき誠実だとか、そんなのはあり得ない姿だと思う。
言葉の印象は似てるけど、「忠実」とは違う。
「忠実さ」なら演技や策戦としても成立するし、
特定の組織や人間に忠実であるがあまりに、他の者を軽んじたり踏みにじったり、
そんな言動を知らずにとってしまう事もけっこうあると思う。
でも。
「誠実さ」の中には忠実という要素も含まれているし、
「忠実さ」の中には誠実という要素も含まれている。
おや?なんだか話の内容が曖昧じゃないか!?
そう(にやり)!
いろんなやり方で言葉を組み合わせても
矛盾や曖昧さのない表現なんてできないってば。
少なくとも、私には。
結局ね、「誠実さ」も演技や策戦として成立するってこと。
ただ、「誠実さ」の場合は、演技や策戦であったとしても、
人を軽んじたり踏みにじったりする行為にはつながらない。
。
。
。
いや、演技や策戦である事が既に、
相手を軽んじたり踏みにじったりしているのかもしれない..。
けどね、あるひとつの事に本物に誠実であろうとする時に、
他の人、または他の側面では嘘をつかざるをえなかったり、
何かや誰かに向かい合わずに切り捨てざるをえない状況というのも、あると思う。
だからこそ。
誰に対して、または何に対して誠実でありたいのか。
ということになるのだと。
例えばね、こう表現してみましょう。
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「誠実さ」とは、明確な愛の意志によって支えられる精神の在り方で、
誠実であるということを実現するには、その為の努力が必要不可欠だと思うのだ。
愛そのもののエネルギーと繋がる意識、そしてその為の努力。
幸運も不運も手出し出来ない、人間の明確な「意志」によって実現する心の在り方。
それは「本人の意識」によるもので、
誠実であるという事を実現するフィールドはあらゆる全ての人に平等に与えられている。
お金があっても無くても、苦境でも満たされた生活でも、
男でも女でも、健康でも体調不良でも、
その違いが「誠実であること」を阻害する理由にはならない。
何故なら「誠実であるということ」は人間の自由意志により意識的に選択されるもので、
物理的な物事によって左右されないほど尊い意志の元に存在する在り方だから。
誰かに誠実になりなさい、と言われてなれるものでもなければ
誠実でなくてもいいよ、と誘惑されたからといって不誠実になれるものでもない。
人が支配する事の出来ない波動領域に位置している精神の「在り方」。
それが「誠実さ」だと、私は思う。
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以上、かなり一方向の偏った視点と感じ方で述べられた文章です。
それでは、次の文章をご覧下さい。
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「誠実さ」とは、明確な目的意識によって支えられる表現方法で、
誠実であるということを表現するには、
どうしたら人から誠実にみられるか、
世の中を観察し人の話をよく聞き隙のない勉強をしたうえで態度に表す等、
その為の努力が必要不可欠だと思うのだ。
人からどう見られているか、常に人の反応を参考にする意識、そしてその為の努力。
幸運や不運の影響も受けながら、人間の明確な「目的意識」によって実現する態度。
それは“誠実にみられたい”という「明確な目的意識」によるもので、
誠実であるという事を実現するフィールドはあらゆる全ての人に平等に与えられているが、
お金があったり無かったり、苦境か満たされた生活か、
男女間の駆け引きの度合い、健康か体調不良か、
それらが「誠実に見られる為の努力」を怠ることの要因になる事はある。
何故なら「誠実であるということ」は人間の目的意識により意図的にに選択されるものであり、
信頼を受ける為の目的や損得勘定によって左右された強い欲求の中に存在する在り方で、
見返りなく愛の名の下に自身の生き方として表現される姿勢とは異なるからだ。
誰かに誠実そうにみせなさい、と言われてそのように演じることも出来るし、
誠実でなくてもいいよ、等と誘惑されたら
余計に不安になって誠実に見えるように努めてしまうかもしれない。
脅しや戦略のひとつとして、人が支配する事も可能な波動領域に位置している「在り方」。
それも、この世での「誠実さ」だと、私は言わざるをえない。
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以上、かなり一方向の偏った視点と感じ方で述べられた文章です。
「誠実さ」と一言で言ってもどの角度や意識領域で表現するかによって、
綴る内容も違ってきますが、「違ってきます」と言いながらも実に曖昧なのは、
その内容が違いながら似ていて、似ていながら違うところ。
場合によっては双方の捉え方に大きなギャップや類似点があっても、
さほど違いがあるようにも似ているようにも見えない(聞こえない)ような、
「死角」が存在するの。
特に、リアルタイムの会話ではかなりこのギャップも類似点も識別しにくいです。
突き詰めれば結局は同じ事言ってるような気がしたり、全く異なる内容に思えたり。
でも。
実のところ「誠実さ」とは根本にはまず崇高な精神(心の在り方)を表すもの。
だから本当には、打算的な目的や策戦としての「誠実さ」なら、
その時点で誠実でなどあり得ないし「誠実」という表現すら出来ない筈、なんですけどね。
では。今度はまた少し、話をずらします。
例えば「誠実」と「正直」。
一見、同じグループで非常に近い印象さえする。
私の感覚では。
この二つは、あまり似ていないと思う。
と同時に、重なる領域が広いのも事実だけど。
「誠実さ」の中には正直な要素が含まれ、
「正直さ」の中には誠実な要素も含まれている。
例えば“白黒はっきりさせる”という意識に対して使われる“グレイゾーン”。
白と黒が重なる領域。
この領域では、ほぼ全ての矛盾や食い違いが説明出来る。
「言っていることとやっている事が違う」とか、
「私には大丈夫と言ったのに、他の相手には逆の表現をしてる」とか、
白か黒の地点からは「矛盾」や「食い違い」、及び「対立」する物事や考え方が。
グレイゾーンでなら。
「矛盾」が生じる事は真実の証であると知らされ、
立場や視点が異なる事で生じる「食い違い」は、
実は“同じことを言っている”という事実を教えてくれる。
白と黒による対立は補完の関係にあり、
互いの存在がそれぞれの価値を支えている事が、グレイゾーンでなら認識出来る。
「誠実」と「正直」の間の、双方が重なり合う自由な領域は、
グレイゾーンの果たすその役割にも似ている(同じではないけど)。
「誠実」と「正直」の間のゾーンには名前の変化がない。
重なる中間領域でもそれは「誠実」「正直」と表現されるのだ。
誠実さには愛の意識が不可欠だと思うけど、
正直であることは愛の意識がなくても実現する。
と、表現すればもっともらしくも聞こえるけど、
誠実さにも、愛の意識がなくても実現する波動領域がある。
例えば信頼や賞賛を得る目的の為の、策戦や手段としての「誠実さ」がそれ。
彼、または彼女は自分の欲求と目的に忠実かつ正直に行動している。
内側で何を考えているかどうかは外には分からないから、
内容(波動領域)が違っても、この世では同じ「誠実」という言葉で表現される。
だからそのことは既に前提(世の中の背景)として認識した上で、
ここでは敢えてそれらの波動領域は含めずに先を続けます。
何かや誰かに誠実である事は、
本人の「意志」によるもので正しさによるものではないと感じる。
正直という言葉には人間の思う「正しさ」の意図が含まれていて、
世の中的にも、これまでの長い歴史の中で、
正直者は「善」で、嘘つきは「悪」というひとつのモデルが成立している。
その意味でなら。
私は自分自身に正直であること、つまり自分が本当はどうしたくて
何を考えて(感じて)いるかを知る、または知っている事はとても大事だけど、
誰彼かまわず洗いざらい内側の思いや考えを伝えるのか、という意味では、
全ての人に自身の思いや感じている事を正直に打ち明ける必要はないと思っている。
誰彼かまわず自分の本音を伝えるなど
自分にも人にもストレスになる場合も多いと思うし。
だから。
せめて自分で気付ける範囲では
不要なストレスを与えたいとも受け取りたいとも思わない。
正直な自分の気持ちを知る(知っている)事は大事だけど、
それをわざわざ口に出すか出さないか、
または誰に伝え誰には伝えるべきでないかの選択(識別)はしたいと思う。
その「正直さ」で言うなら。
本の内容や公の情報も、聞く(読む)側で正直に選択すればいいことであって。
その内容が自分にとって為になるかならないか、という感覚はけっこう頼りになる。
為にならないと感じるのなら、その情報を参考にしなければいい。
自分にとって肯定的な印象を受けない情報やアドバイスが、
貴方に幸運を運んでくる確率は低い。と、思う。
読みながら、為にならないと感じた本なら、すぐに読むのをやめればいい。
読みかけたのだから最後まで読まないと..と思って義務的に読むのなら時間は浪費され、
その分、無意味に視力も下がるだろう。
自分自身に正直である事は、
明確な愛の意識がなくても実現出来る振り幅の広い行為だと思う。
またその正直な表現や態度が自身の内側の問題であるにも関わらず
無闇に人の心を斬りつける言動に繋がる事もある。
本人(私を含む)は、それに気付かないどころか、
自分が誰にでも正直に思いや考えを伝える事を
“勇気がある”とかの、ある種の強さと考え誇りにしている事も多いみたい。
(.....確かに、ある種の?強さではあるのだろうか...)
その道を振り返ると、
自身のなりふり構わぬ「正直さ」によって心臓をえぐられた人達の幻が見える様だ。
問題なのは、自分の感じ方が既にエゴや不純による感じ方であるにも関わらず、
その感じ方(受け取り方)を元にして、
相手に非難・中傷や否定的な未来予告を与えてしまう事だ。
そして大抵の場合その発言者(私を含む)は、
自分の考えや感じ方を「正しい」と思いこんでいるようだ。
けど。
誰かにとっての成功の秘訣が、他の誰かには「毒」になる事もある。
誰かにとっての失敗したやり方が、他の誰かを成功に導くかもしれない。
誰かに対する批判が自分の心の姿を表していた事実に気付くのは、もっと後からだろう。
だから。
目の前の相手が、
貴方をわざと引き下げる様な波動を与える「為にならない」存在なら。
そこから離れて距離を置き、彼または彼女には意見を求めず、
自分にとって最良の「方法」は、自分で探した方がいい。
勇気を出して恐れや不安をを手放し、魂の神聖を信じて、心に従う事だ。
意見を聞くのなら、
自分に対して否定的な波動を持っていない、
貴方が信頼できる(と感じる)相手を選んだ方がずっといい。
真に公平な人なら、たとえ貴方に注意や警告が必要だと感じても、
貴方を落ち込ませたり、モチベーションを下げるような波動は与えないし、
足を引っ張る表現の仕方や言葉も選ばないように努力すると思うから。
そして、「本当には人の意見を聞くつもりがない」という場合は、
それでも(気休めや会話の道具として)人に意見を求める様な行為は慎みたい。
相談を受ける側は、それなりの労力を使って真剣に考えてくれるのだから。
自分の心を正直に見つめる事も、
信頼する何かや誰かに忠実である事も、
それが純粋な愛の意識から発生した行動なら。
その背景には必ず「誠実さ」が在る。
私にとって真の「誠実さ」とは、
努めてそう在ろうと努力しなければとうてい維持出来る姿勢ではないし、
使命や偶然で与えられる特別な才能でなどあり得ない。
各々の「意志」によって選択され、努力して培われる「高貴」な精神の宝物。
その宝物を生きている歩みの中で
継続して内側に持ち続けられるかどうかは、本気で分からない。
おそらく、ある時は「不誠実」であり、ある時は「誠実」だったというような、
ランダムな回想になるのだろう(笑)
でも本当には。
そんな言い訳を事前にしなくてもいいように、常に意識出来る状態でいるのが理想なのだ。
私。または貴方は。
誰に対して、または何に対して誠実でありたいのか。
私たちはそれを選択し、自分にとっての「誠実さ」を自由に設定する事が出来る。
私、または貴方の「誠実さ」を創るのは、各々の明確な「意志」によるものだ。
【20081213/01:38 満月】

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