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翌朝。
祖母は久一青年と一緒に家を出て、
もうひとりの青年と3人で8時間の道程を日之影町まで歩いた。
日之影に午後2時頃着き、それからバスに乗り高千穂に到着した。
青年二人が「おれ達は二晩泊まって明後日帰るが?」と言うので、
自分は一週間くらいは高千穂に居るから先に帰ってと答えた。
そこで青年達と別れたた祖母は、叔父の家に向かった。
父親と来た時に道は覚えていた。
叔父の家に着いたのは午後4時頃。
祖母が訪れると、叔父も叔母も囲炉裏のそばでニコニコしていた。
祖母は「だまって来たけど」と言った。
すると叔母が「だまって来たえぇ?(方言、だまって来たの?の意)」とびっくりはしたが、
それなら(実家には)家から手紙を出しておくから、まぁ上がれと言った。
受け入れてもらった祖母は、とても嬉しかった。
さて。
嫁入り先では。
祖母が家を出た翌日、実家には祖母が予定日に戻らないとの便りがあった。
祖母は、昨日の夕方に嫁ぎ先に帰ると言って確かに実家を出ている。
もしや川に落ちたのではないかと消防員が出て川を捜索する大騒ぎになっているところへ、
祖母と共に高千穂へ行った二人の青年が帰ってきた。
「?あいつなら、おれ達と高千穂に行ったが?」
かくして。
祖母が《逃げた》事が発覚したのだった。
この件について、祖母の両親は、祖母を咎めることはなかったという。
後に、
戦死した兄の机の引き出しから2円(50銭玉4枚)借りた事を手紙に書いて実家に送ったところ、
それについて「心配しないでいいよ」と返事が来たそうだ。
祖母が後から聞いた話しでは、
当時実家では、祖母が高千穂に行った(逃げた)事を大変喜んでいたそうだ。
今になって祖母が言うには、嫁ぎ先はあまり評判の良いところではなかったらしい。
その後祖母は高千穂で一年間、働きながら勉強をした。
裁縫教室には通わなかったが、1ヶ月5円貰いながら、毎日の仕事の中に縫い物・
張り物(当時の言葉では「しんし張り」)・料理などがあり、
祖母にとっては学べるものばかりだった。
祖母の言葉では「1ヶ月5円貰いながら、自分の為には学校のようなものだった」と言う。
奉公から帰ってすぐに農家に嫁いだ祖母は
“言葉の使い方ひとつ学んだ事がなく何も知らない自分だったので、
あの時高千穂に行って本当に良かった"と今でも思っている。
高千穂で一年過ごしてから、祖母は実家(諸塚村)に帰った。
それから姉の嫁ぎ先の家で2年位働いた。
祖母はタバコ屋の窓口でタバコを売っていた。
その頃(働きはじめてから2年ほどして)、また嫁入り話が浮上した。
相手は、タバコ屋にタバコを買いに来ていた常連客の息子だった。
話を聞いてみると、嫁ぎ先ではミシンの仕事が出来るという。
祖母は「ミシン」に惹かれた。
祖母曰く、「ミシンに嫁いだようなものだった」。
今のように相手を知ってから結婚をするような時代ではないのだから、それも当然と言える。
昭和13年の12月に、祖母は結婚した。
この時の夫が、私の祖父にあたる。
それからは、昭和15年に息子(私の父)が生まれるまで祖母は元気に働いた。
産後から、祖母は体を壊し入退院を繰り返すようになる。
そんな中、夫に国の徴用命令が出た。
夫は軍需工場で働くことになり細島に行った。
子供は、体の弱い自分の代わりに義父と義母が育ててくれたようなものだと、祖母は言う。
あの時。
祖母が高千穂へ逃げた事で。
その後の未来に私が誕生する事になった。
何が正しいとか間違っているとかは、歴史を振り返るほどに見当がつかなくなる。
ただわかっているのは。
今、この時代に私がここに生きている事実は、
そしてそこから繋がる未来の可能性の一部は、
祖母の行動によって創られているのだ。
【20090127:記】

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