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さて。
「霊場」へ着くと、木々に囲まれたその場所に所狭しと並べられた沢山の仏石を見て、
女性が「恐ーい。よく1人で来れるね」と言うので、
私は思わず笑いながら「私、怖くないんですよー」と伝える。
女性は感心していた。
私はすぐにお地蔵様の所に行くと..何となく様子が寂しそうで...
ちょうど雨の滴が左目のところにたまっていたからだと思うけど、
まるで泣いているみたいだった。
数日続いた風雨のせいか、
以前手の穴の所に差してあった蓮の花(造花)が落ちていたので、
拾って元通りにした。
その間、女性はずっと天皇のお墓のことを言っていた。
そうそう、思い出した。
最初、「ここ、死体が埋まってるんじゃない?」と言われ、
「えー!?」と、こっちがビックリして。
「考えた事もありませんでした」と言うと。
「だって昔は土葬だったから」とおっっしゃるので。
「たしかに、その可能性はありますね」と、ビックリしながら伝えた。
だって。その可能性もナシとは言い切れないでしょ。
あ。でも、最終的にその女性は「ここは石(及び碑)だけだね」と言っていた。
女性は、その場所に並ぶ複数の仏石を見て、
天皇の死と共に殉死した家来のお墓かと思ったらしい。
「昔は天皇が亡くなると(家来は)共に自害していたからね」と言う彼女の言葉は
すぐに理解できた。
以前、鹿児島県(南さつま市)の加世田にある竹田神社に訪れた際に、
神社の脇から続く「いにしえの道」の奥にある島津日新公(忠良)のお墓の横に、
殉死(自害)した家来のお墓が一緒にあって、その説明を読んでいたので。
女性はどぉしても天皇のお墓が気になるらしく、
大きな石を指して「これだろうか?」
または「(ここじゃなければ)どこにあるのだろうか?」と、ずっと言っていた。
二人で、各仏石に彫られている文字を確認する。
仏石には、切り出した四角い石に様々な仏の姿が彫られている。
そのほとんどが大正9年3月と記されており、
文字がもっとハッキリ確認出来るものでは「3月21日」となっている。
3月21日と言えば、弘法大師(空海)の誕生日だ。
駐車場近くのお堂には弘法大師が奉られているので、
この日付はおそらく偶然ではないだろう。
新しいものだと昭和50年というのもあるみたいだけど、元々は大正9年に揃えた様だ。
最初は88基か、または100基くらいあったんじゃないかなぁ...。
88基と想像したのは、
その場所に入る道に(何かの)八十八カ所霊場のひとつ?のような表示版があったから。
石にはそれぞれ数も彫られているけど、全部は揃って(残って?)ないみたい。
文字も全部は読み取れないし、元々の正確な数は分からない。
けど、それらの年代から古事記に記された天皇のお墓とは、関係ないだろうと察する。
だって大正時代じゃかなり新しい。
でも女性には、そんな細かいことはどうでもよさそうで(笑)
彼女の気がかりはひたすら天皇の事だけだった。
【20070606】つづく

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