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『奇跡のリンゴ』
「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録
著
石川拓治
監修
NHE「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班 |
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2008年11月29日に、近場で一泊の小さな旅をした。
翌朝30日。
起きて、部屋のドアの下から新聞が入れられていることに気付いた。
今回宿泊したタイプのビジネスホテルで、新聞のサービスがあるのは非常に珍しい事だった。
「新聞...珍しいなぁ..」と呟きながら、床から拾い上げてベッドの上にパサリと置いた。
私は日頃からテレビを見る機会が随分少ない(海外ドラマチャンネルを除く☆)。
でもそれ以上にもっと、新聞を読まない。
朝食をとって部屋に戻り、出発の支度をして、まだ少し時間があったので新聞に手を伸ばした。
文字は読まずに、1枚ずつ遊びみたいにめくっていたら。
何ページめかの下の方に掲載されていた、この本の広告が目に入った。
ビリビリビリ、瞬間動作でそのページだけ破りとってバッグの中に入れた。
そろそろ、出発の時間だ。
広告ページと共に部屋を出た。
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ケイタイで検索してその日に注文を入れた。
3〜4日後、注文商品がコンビニに到着した事を知らせるメール。
その日の夜、本を受け取り部屋に帰ると、
包装を開けて取り出した先から読み始めた。
このスピードは、私にはとても珍しい。
(旅先で、その時読むために購入した以外では、本を買ってすぐに読み始める事は少ない。
読み始めたとしても大抵は数ヶ月後とかで、今まで最も放置期間が長かったのは
購入してから約5年後に読み始めた本だった)
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空き時間毎に読み進めて、おおよそ4日目くらいに読み終えた。
読み終えた本を閉じて、「ありがとうございます」と手を合わせた。
今。
部屋のメインスペースにCDスタンドを置いて、そこに『奇跡のリンゴ』が立ててある。
しばらくの間。
朝起きてとか、部屋を出る前とかに。
その本に向かって。
自分の動作に気付く間もなく、自然に手を合わせていた。
でも最近では、「おはようございます」とか「じゃ、行ってきます」とか言いながら
本に向かって思わず手を振っている(笑)
ものすごいチームだと思った。
チームというのは、木村さんはもとより、長い間凄まじい苦境を共にしながら、
ただ黙って共に在り、作業を継続し続けたご家族のことだ。
そして。
チームのリーダーを信じて生き続け、
自ら(自然界)の力を取り戻しながら新しく生まれたリンゴの木。
〈ものすごいチームだ〉と、物言わぬ思いが“ズン、”と腹に宿っている。
木村秋則氏率いる魂のチームが成し遂げた使命が地球に与える影響を思うと。
生涯、頭が下がる。
例えば地球という規模に対して、
リンゴの木が何本かとか、リンゴ園の面積がどのくらいかとか、そんなレベルの話ではない。
私にとって。
そんな地球の先輩方に、どのような思いを感じているか、
その思いは、とても言葉を使えるような次元にはない。
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※以下、『奇跡のリンゴ』文中の内容を参照。
木村氏が、
『無理をさせてごめんなさい。
花を咲かせなくても、実をならせなくてもいいから、どうか枯れないでちょうだい』と、
リンゴの木を一本一本回って、頭を下げて歩くシーンがある。
この時木村氏は、全てのリンゴの木に声をかけたのではなかった。
周囲を気にして、隣の畑や道路との境に面しているリンゴの木には声をかけなかったそうだ。
最終的に。
規則性なくランダムに枯れていったリンゴ木のうち、ある一列のリンゴだけは全滅しており、
その、全滅した一列は、木村氏があの時“声をかけなかった”リンゴの木だったという。
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植物と人間の間に、信頼関係は「成立」する。
私は。
自然界は「言葉」というコミュニケーションツールを持っていないが、
「意識」の伝達は可能だと思っている。
5〜6年前の話。
見た目にはほとんど枯れて、人間がいうところの「もうダメだね」という状態になり
実家の庭に捨てられていたいくつかの花の鉢を5鉢ほど自室に運び込んで来たことがある。
カルナレイキのシンボルを使って、毎日レイキをかけていた。
3日を経過した時点で、植物達の「気」が明らかに変化し、「生」の方向へシフトした。
その後は枯れかけていたなど想像もできない様子で活き活きと蘇っていった。
植物達は、つぼみを実らせ花を咲かせていく。
でも。
ひと鉢だけ、3日を過ぎても何の反応も示さない植物があった。
「おかしいなぁ..」「何でだろう?」と思いながらも、毎日のようにレイキをかけていた。
1週間を過ぎ、
他の植物達がメキメキと元気になり花を咲かせる中、その植物だけは全く変化を見せない。
更に日にちが経過した頃。
私は毎日のように「どうしてだろう...」と思いながらその植物を眺めていた。
ある日の午後、部屋の椅子に座り植物達に意識を向けてジッと眺めていた時に「ハッ」とした。
人間の思いこみ(意識)が、植物の自由な育ち方を遮っているのでは?
考えてみたら、3日を経過しても反応のない植物に対して、
私は毎日「どうして成長しないのだろう?」「どうして元気にならないのだろう」などと
思い続けていた。
カルナレイキの中のシンボルを、植物達がよく好むことはそれまでの実践で知っていたので、
「当然」みんなが一緒に元気になるものと思いこんでいたのだ。
けど、どの植物にもそれぞれに違ったペースがある筈だ。
みんなが同じペースで育つ事を期待するのは人間の都合(思い込み)だ。
植物達はとても素直な素質を持っている(と、私は感じていた)。
だから、私の「どうして成長しないんだろう?」という意識を素直にくみ取って、
一緒に「どうして成長しないんだろう?」という状態になっていたのではないかと感じた。
その事に「ハッ」とした直後、
椅子から立ち上がり、植物達に声をかけた。
「言葉」を使うのは人間の都合で、そうしたほうが「意識」を伝えやすいと感じたから。
植物達は、
言葉の内容を理解しなくても、その言葉に乗せられた意識(波動)を受け取る筈だと信じていた。
「みんな、今日からここの植物達は自由にしてください!
咲きたい時に咲いて、休みたい時は休んでください。
咲き方も、咲く季節も、自由でいいからね☆」
それまで少しも反応を見せなかった植物には。
「ずっと気付かなくてごめんね、私が“なんで”って思っていたからだよね、
成長しなくても、花が咲かなくても、自由でいいからね」
と、伝えた。
翌朝。
起きてすぐに植物達を見て目を見張った。
あの、少しも反応しなかった植物が、一晩で2つの花を咲かせていた。
つぼみひとつ無かったのに?
オレンジ色の、それはもう鮮やかで美しい花だった。
(それまで見たことのない花だったので、名前は知りません)
嬉しくて。
「咲いたの?」「咲いたんだぁぁ(喜)」と、満面の笑顔で声をかけた。
「すごくきれい..」「こんなに綺麗な花だったんだね〜☆」
何度も感嘆し喜んだ。
その日を境に、この植物はポンポンと毎日花を咲かせていった。
そして、それ以外に。
唖然としたのは他の植物達の反応だった。
まず、上の方へ真っ直ぐ伸びていた植物が、全ての枝葉を横に広げ放射状になっていた。
その植物は(スミマセン、名前を知りません)、
当時どこのお店で見かけても何本もの枝葉が全て上の方へ真っ直ぐに伸びている植物だった。
もちろん、添え木をして真っ直ぐさせているとかではなくて。
でも。放射状に横広がりになったその姿を見て、愛おしくて笑った。
「こんなふうになりたかったの?(笑)そっかぁ..(笑)」
そして。
ずっと均等な広がり方で成長していた植物が、
全体を前に押し出すようにひとつの方向を目指した姿勢に変化していた。
「...この咲き方が良かったんだぁ(笑)」
一晩で、思い思いに変化したそれぞれの植物の様子を目の当たりにして、
傍(そこ)にいる人間の意識が植物に与える影響の重要さを教えられた。
これを「人」に例えるなら。
例え言葉を使わなくても、
それぞれの意識が周囲の人や環境に与える影響を思わずにはいられなかった。
植物と人間の間に、信頼関係は「成立」する。
信頼を育て絆が結ばれた状態では、傍にいる人間(仲間)がどれほど弱っていても、
疲れていても、鬱屈していても、それで植物達が枯れたり衰えたりすることはない。
むしろ与え励まそうとするのが私がこれまでに教えられた、植物達の真の姿だった。
(※植物にも寿命(役目の終わり)は存在しますから、
枯れない事が正しいという考えではありません)
もし。
植物への意志の伝達や信頼関係の成立を信じられないのなら、
それはただ単にそれを経験していないというだけの話で、それ以下でもそれ以上でもないと思う。
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「運命を生きる」というのは、自分の生き方をするというシンプルな事なのだと思う。
使命とは何か、何の為に生まれたかは、自分の生き方をしていれば後からついてくるもので。
先に使命や生きている意味を知る必要は、本当にはないのかもしれない。
私たちはみな、存在していることそのもので、もう既にその役割を果たしている。
迷いや苦悩も「自分の生き方」の一部であり、
好調である事が運命に添った生き方であるとは、単なる人間の思い込みに過ぎない。
自分の生き方をするのが先、「運命」はあとからついてくる。
なら。
「自分の生き方」とは?
自分を信じ、その心に従う事だ。
でも。
“自分を信じ、心に従う”と、
人間の都合で言うところの何もかもが上手くいくという意味ではない。
それでも、なんでも、「自分の生き方をする」というだけの事で。
迷いや苦悩の過程が自分の生き方をすることによって与えられた現実ならば、
その環境をどのように過ごすかもまた、自分の生き方となる。
そこでは人の言う「正しさ」はほとんど存在(機能)しない。
今、人生を振り返り、どのシーンもどの言動も、あの時の自分の精一杯だったと思えるなら、
間違いなくそれは、自分の生き方をしてきた(運命を生きてきた)証だろう。
どれほど傷つけても、どれほどの失敗でも、後悔したくても出来ないほど、
あの時、その自分で精一杯だったと感じるなら。
貴方は。そして私たちは、間違いなく、運命を生きている。
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“自分を信じ、心に従う”為に最も重要な要素は、
自身の心を、自分で信頼出来るような「在り方」に育てる事だ。
心底自分を信じられる人というのは、人には知られない「心の在り方」を通して、
自分が信頼出来る人間だと知っている人ではないだろうか。

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